#不正選挙、#憲法、#国民投票
アテネの抽選の道具ピナキア札
ピナキア札とはアテネの抽選で使われる小型の細い銅板で、市民の
識別に使われ、そこに名前、父の名、行政区などが彫られていた。
古代アテネで陪審員を指名する時などに用いられたボードの破片。
これは抽選で公職者を偶然に任命するためにクレオテリオン
(kleroterion)という抽選機に挿入された。
このような制度は陪審員が買収されたり、ある部族出身の者達に
独占されることを防ぐために使われていた。
抽選の時には、皆がその周りに集まり誤魔化しがないか見張っていた。
アテネの議会が実際的にどのように機能していたか、任務に指名された
場合にはどうするかを少し説明する一例をあげると、
例えば、OGM(遺伝子組み換え作物)に関して、まず最初に我々は
それに関しては何も知らない。
人々は仕事にかかる。情報収集、読む、意見の交換、各自の考えを
討論する、専門家を来させて聴く、このようにするうちに、
次第に人々は専門知識を得ていく。
例えば、陪審員の市民議会の経験では、人間とは信用するととても
早く変わることが分かる。
トックビル(アレックス・クレモン、士爵、1805-1859)も
フランス革命、アメリカの民主主義、そして西欧の民主主義の
変遷などの分析で有名だが、
彼は、いかに抽選されたことで人々が適応するかを述べていた。
民主主義において、表現の自由、発言がいかに重要であるかは
アテネ人の「決定」に関する考え方に現れている。
アテネでは、決定が正当であるには、【発言を全てのものに与えること、
もし中には異端派の意見で、もしそれらが妄想的、馬鹿らしい、風変わり、
同じく危険であっても。
このようにして全ての者に、全ての意見に機会を与えとことにより、
公的な決定は正しく明確にされる】
危険な意見に討論の場を与えることは重要なことで、人々の目前に
危険な意見を晒し、危険性を証明することでこれらを削減できるからだ。
または、スイスの例を挙げると、
スイスは小郡で直接民主政を実行している。
小規模であるが、その地域で取り扱えないことを上層レベルに任せる。
これは補完:シュブディディアリテ(subsidiarité)と言い、
地元で取り扱えない全てで、実際にはほんの少しを上方に通過させる。
さらに、上方の議会や国会に代表として送る者たちは監視される。
このようにして、抽選は最良と思われる。
民主政は代表政府のような大きな規模にもよく適応できる。
「選挙」の批判と欠点、抽選の長所と民主政への適応性
選挙の批判と欠点
アリストテレスはこう言った。
「至る所で、金持ちは少数で貧者は多数であるから、
民主主義と寡頭主義の本当の違いは富と貧困である。
だから必然的に指導者が少数または多数にもかかわらず、
富により権力を施行する政体は寡頭政治である。
もし、貧しい者たちが統治するなら、それは民主主義である。」
理論的に、この200年間、共通の利益のためという名目と、
面倒で複雑なことは人民には無理なので、人民の代表者が
これらを引き受ける。
人民に自由な時間を与えるという口実で、立法者と行政者を
《候補者から選ぶ選挙》と《普通選挙》で最も優秀な者たち
貴族-アリストイを指名してきた。
この候補者の中から選ぶ選挙は、
有権者に代わって全ての法律を制定する御主人になる代表者(議員)を
製造する。
議員は有権者に代わって全てを決定する。
選挙は有権者から主権を奪う。
これが意味することは、人民を一種の政治的な子供である
言葉を禁止された子供という下劣な有権者の地位におとしめ、
政治的な無力を作る。
このようにして、最も多くの人々を意図的に、長期的に、
政治的決定から遠ざけることは公共の利益に反する。
より良い決定は一人の者または少数の者達よりも、人民議会の
方が良いと言う多くの思想家もいる。
アリストテレスが言うように「討論は、人民と名士、
これらの者と群衆がより良い結果を出す」
選挙は人民を子供扱いにし、無気力にし、無責任にする。
政治が分からないので自分たちには無理、できないと思わせる。
人々を政治から遠ざけ単なる見物人にする。
選挙は教育学的に市民を従属させ、忍従の見習い、
有権者を支配された諦めた者の役割に閉じ込める。
選挙は役目の回転を妨げ機械的に政治のプロ化と政党の形成を産む。
これらは世界中どんな時代にも確認できる。
選挙は最低の者達を権力に据える。
人民に代表者―議員が必要だと認めたとしても、選挙では頻繁に
最低の者達を権力につかせる。
【選挙は権力を欲する者に権力を与える。】
我々はアテネの時代である2500年前から、
権力を欲する者に権力を与えてはならないことを知っている。
プラトンもこれに関して言っていた。
「最低の悪は権力を欲する者に占領されていることだ」、
「正しい人間のもっとも外面的な特徴は、他の人間を統治すること
を望まない。
自分だけを統治することで満足している。これは決定的である。
最低の人間が統治すると言える」
また、選挙では、
権力の座に至るために、
彼らの能力と動機を全て選挙闘争に注ぎこみ、
この能力は権力を執行するために必要ではないので、
このような権力を欲しがる者に与えるのは良いことではない。
選挙は嘘をつかせ、嘘つきに優位である。
詐欺者の出現を許し、これらの者達の全才能はどのようにして
国民を欺けるかに集中する。
ある意味で、選挙とは権力を嘘つきに与える。
最もうまく嘘をついた者が選ばれる。
選挙は嘘を増長させる。
任務前に選ばれるため嘘をつき、
任務中に嘘つき、
任務後にまた再選されるために嘘をつく。
だから《候補者の中から選ぶ選挙》は
機械的に常に嘘をつくように励まされていると言える。
選挙は市民がコントロールできない御主人を作る。
選挙では、
信用とコントロールは代表者(議員)が指名された時点でだけ成り立つ。
選挙されたという結果により、最も優秀な者が選ばれたという意味上、
任命中、任命後、それ以上コントロールすることを思いとどませる。
再当選できないというコントロールでは不十分である。
この事実上のコントロールの欠陥は議員の汚職を可能にさせ容易にする。
コントロールが選挙という形は共通の利益を保護しない。
選挙は市民がコントロールできない政治家カストを作る。
全ての会話、全ての調査、最も多い批判などの中で、
最も多い深刻なものは「政治家のプロ化」である。
この職業化は避けることができない選挙の結果である。
意図的な少数リストの候補者と候補者の誘惑テクニックが常に
上手くなる。
有権者が常に安定しているなどの理由で幾度も同じ者を再選する
ことになる。
選挙は政治家カストのために、
他のもっと多くの政治的アクションを奪い、
政治的平等を否定し、政治家カストの独占を産む。
選挙は金持ちが決めた少数候補者を資金的に援助でき、
それにより権力を金持ちに与え、結果として寡頭政治を実行させる。
誰かに沢山の借りがある人を腐敗させることは容易だ。。
しかし、抽選のように何の借りもない人間を腐敗させることは難しい。
もし、自分たちに都合の良い候補者を援助できるなら金持ちは確かに
するだろう。
このようにして、
【援助された議員は容易に負債者】になる。
故に、恩恵者の個人的利益の使用人になる。
彼らにとって、選挙資金と再選挙資金に恩恵者の存在は
絶対的に必要である。
実際に、候補者達の援助はどのような形で行われているのか。
金持ちが所有しているテレビ、マスメディアを使い、
候補者を美化し頻繁に見せる。
罠のない容易な質問しかしない。
彼らの競争者たちをメディアに招待しない。
新聞、テレビ、ラデオ、論説者、専門家、調査研究所などの
マスメディアで、全てこのような仕事が金持ちの候補者に
有利になされている。
今日、全ての新聞、雑誌などは少数の銀行家と企業家、
武器商人に属する。
そして、テレビ、ラジオはそれらから情報を提供されている。
故に、「候補者の中からの選挙」は買収を許す。
これらは最も大きな許されない欠点である。
このようにして、社会団体のうちで最も富める者たちが、
「候補者の中からの選挙」で権力を維持できる方法を見つけ、
彼らに有利な権利を作ってきた。
この権利を資本主義または寡頭政治(金持ちによる金持の政治)とも言う。
議会、政府、裁判、刑務所、警察・・・などの全てのピラミッド構造は
選挙で指名された立法者からなる。
選挙に指名された議員たちによりピラミッドは作られているのだ。
このシステムはこれらの者達にとって個人的な利益になるのだ。
しかし、これは公共の利益には全く関係ない。
また、選挙は勝利するために政党を必要とする。
政党は軍隊的規律で運営され、政治活動家に服従を要請し、
集団的情熱を動員させる。
だいたい一年に一度は選挙があるので一年中つねに
選挙キャンペーン状態にある。
候補者は政党の政治活動家の群れである軍隊を動かす。
そこには一列の政党特有の政治思想、教義、秩序、階級意識、
違う政党への憎悪がある。
党全体が政権に到達することが唯一の目標になる偏執状態に陥る。
このように政権に到達することが最優先の目的になるので、
共通の利益を追求しなくなる。
政党は選挙に勝つだけに役に立つ。それだけである。
政党という巨大資金融資ができない普通の市民(99%)には
選挙に立候補しても当選のチヤンスはゼロに近い。
故に、選挙とは民主主義とは程遠いものであることが明白である。
選挙が民主主義というならば、
この点から考えても嘘であることが分かる。
選挙がない政治体制に政党が存在したことはない。
資本主義が必要とする選挙という選択が我々に政党という
惨禍を余儀なくしている。
選挙とは実際に市民を政治的に子供にし無力にする猿ぐつわである。
故に選挙とは全体的に、経済的に、社会的に、
最も多くの人々に公共の利益を守ることを妨害する。
この200年間、選挙は常に有力者の議会を生産してきた
ことが確認される。
彼らは社会団体を代表していると主張するが絶対そうではない。
彼らは極端な特権者である。
世界中に見られるように、議会における労働階級の存在は微小である。
毎日見られるように、議員たちが自分に与える優遇は数知れない。
選挙はむしろ地域的代表者に適している。
近隣の関係でお互いによく知り合っている選挙は市町村の
投票に向いているが、実際は、国レベルでは適応しづらいのである。
抽選こそが地域的投票、国家レベルでの投票、
市町村連盟での任命に向いているのである。
今までは、これと反対のことが言われてきたが間違っているのである。






